「自分一人じゃない」と思えるだけで、
苦しい時間は不思議と乗り越えられる
天元工業株式会社
加藤 航大
Kota Kato
まずは自己紹介をお願いします。
平成8年生まれの29歳です。桑名市長島町で生まれ育ち、長島中学校を卒業後、四日市中央工業高校に進学しました。柔道を頑張りたかったのと、家業の「天元工業」が土木の仕事をしていて、当時土木が学べる学校だったことが理由です。高校3年間は、勉強というより柔道をがむしゃらに頑張る生活をさせてもらいました。 卒業後は近くの建設会社で修行するつもりでしたが、「もう少し柔道を頑張ってみたい」という思いが芽生えまして。土木が学べて柔道が強い大学をと考え、当時、理系の土木学科で日本で一番柔道が強かった石川県の金沢工業大学に決めました。 初めて県外に出て一人暮らしをし、4年間で無事に卒業できました。すぐ地元へ帰らず、「ここに行かなければ就職できないような場所で一度勉強したい」と思い、ゼネコンに就職。入社時に「3年くらい勉強して、キリがいいタイミングで辞めさせてほしい」と正直にお伝えし、その通りに4年ほど勉強させていただいて、25、6歳の時に三重に帰ってきました。天元工業で働き始めて、今4年ほどになります。
まずは自己紹介をお願いします。
平成8年生まれの29歳です。桑名市長島町で生まれ育ち、長島中学校を卒業後、四日市中央工業高校に進学しました。柔道を頑張りたかったのと、家業の「天元工業」が土木の仕事をしていて、当時土木が学べる学校だったことが理由です。高校3年間は、勉強というより柔道をがむしゃらに頑張る生活をさせてもらいました。 卒業後は近くの建設会社で修行するつもりでしたが、「もう少し柔道を頑張ってみたい」という思いが芽生えまして。土木が学べて柔道が強い大学をと考え、当時、理系の土木学科で日本で一番柔道が強かった石川県の金沢工業大学に決めました。 初めて県外に出て一人暮らしをし、4年間で無事に卒業できました。すぐ地元へ帰らず、「ここに行かなければ就職できないような場所で一度勉強したい」と思い、ゼネコンに就職。入社時に「3年くらい勉強して、キリがいいタイミングで辞めさせてほしい」と正直にお伝えし、その通りに4年ほど勉強させていただいて、25、6歳の時に三重に帰ってきました。天元工業で働き始めて、今4年ほどになります。
高校生からよく「辛いことや困難をどう乗り越えたか」という質問をいただきます。加藤さんはどう乗り越えてきましたか?
期待外れの答えになってしまうかもしれませんが、当時は別に辛いと思っていなかったんです。一番大きな理由は、周りに仲間がいたからだと思います。一人で抱え込むと気持ちが滅入ってしまいますが、当時は柔道部の同期がいて、みんな少なからず苦しい思いをしていました。「一人じゃないんだ」と思うと、不思議と辛いことにならなくて、「みんなで一緒に乗り越えよう」と思えたんです。苦しいことを苦しいと認識しないというのは、団体競技から学んだことですね。 今でも仕事で上手くいかないことがあっても、「自分一人じゃない。みんな大なり小なり抱えながら、歯を食いしばって生きているんだ」と考えると、「まあ、なんとかなるか」と楽観的になれます。 高校時代はずっと肩を怪我していて、2年生で新チームに変わる「さあ、これからだ」という時に、手術しないと日常生活もできないほどの怪我をしました。柔道が全てだったので、「学校にいる意味がない」と深く落ち込んだこともあります。でも、悩んでもしょうがないんですよね。もう受け入れて、「しょうがないよね」と思うようにしました。壁を壁と思わないようにしているのは、今でも心がけていることかもしれません。
高校生からよく「辛いことや困難をどう乗り越えたか」という質問をいただきます。加藤さんはどう乗り越えてきましたか?
期待外れの答えになってしまうかもしれませんが、当時は別に辛いと思っていなかったんです。一番大きな理由は、周りに仲間がいたからだと思います。一人で抱え込むと気持ちが滅入ってしまいますが、当時は柔道部の同期がいて、みんな少なからず苦しい思いをしていました。「一人じゃないんだ」と思うと、不思議と辛いことにならなくて、「みんなで一緒に乗り越えよう」と思えたんです。苦しいことを苦しいと認識しないというのは、団体競技から学んだことですね。 今でも仕事で上手くいかないことがあっても、「自分一人じゃない。みんな大なり小なり抱えながら、歯を食いしばって生きているんだ」と考えると、「まあ、なんとかなるか」と楽観的になれます。 高校時代はずっと肩を怪我していて、2年生で新チームに変わる「さあ、これからだ」という時に、手術しないと日常生活もできないほどの怪我をしました。柔道が全てだったので、「学校にいる意味がない」と深く落ち込んだこともあります。でも、悩んでもしょうがないんですよね。もう受け入れて、「しょうがないよね」と思うようにしました。壁を壁と思わないようにしているのは、今でも心がけていることかもしれません。
ご実家の「天元工業」を自分が継ぐという思いは、小さい頃からあったのでしょうか?
うちの会社は、僕の生活の一部だったんです。学校から帰ってくると会社の人から「おかえり、今日学校どうだった?」と声をかけられ、朝は「いってらっしゃい」と送り出してもらうのが当たり前の日常でした。 皆さんいろんな声をかけてくれて、「いつか一緒に働けるのを楽しみにしてるよ」という人もいれば、「無理して帰ってこなくてもいいんだよ」という人もいました。でも、社長である父から「会社を継いでほしい」と言われたことは一度もなかったんです。 そんな中、小学生の時に社長が病気になり、「もしかしたら会社を続けられないかもしれない」という話を耳にしました。その時、自分の日常が崩れる、家族がいなくなるような感覚になって、何もわからない子どもだったのに、「いつか俺が会社をやりたいから、なんとか会社を残してほしい」とみんなに言いました。 それが自分への約束のようになって、「言ったからには嘘はつけない」という思いから目標が定まりました。小さい頃から仕事を意識させてくれる環境があり、選択肢があって、それを自分で選べたのだと思います。
ご実家の「天元工業」を自分が継ぐという思いは、小さい頃からあったのでしょうか?
うちの会社は、僕の生活の一部だったんです。学校から帰ってくると会社の人から「おかえり、今日学校どうだった?」と声をかけられ、朝は「いってらっしゃい」と送り出してもらうのが当たり前の日常でした。 皆さんいろんな声をかけてくれて、「いつか一緒に働けるのを楽しみにしてるよ」という人もいれば、「無理して帰ってこなくてもいいんだよ」という人もいました。でも、社長である父から「会社を継いでほしい」と言われたことは一度もなかったんです。 そんな中、小学生の時に社長が病気になり、「もしかしたら会社を続けられないかもしれない」という話を耳にしました。その時、自分の日常が崩れる、家族がいなくなるような感覚になって、何もわからない子どもだったのに、「いつか俺が会社をやりたいから、なんとか会社を残してほしい」とみんなに言いました。 それが自分への約束のようになって、「言ったからには嘘はつけない」という思いから目標が定まりました。小さい頃から仕事を意識させてくれる環境があり、選択肢があって、それを自分で選べたのだと思います。
ゼネコンでの修行を経て戻ってこられた時、すぐに経営の立場になられたと思いますが、最初の段階で難しかったことや葛藤はありましたか?
戻って少ししてすぐに取締役という形で入らせてもらったのですが、最初は本当に名前だけで、特段何かができるわけではありませんでした。ゼネコンと天元工業では規模が全く違い、学んできたことがこの会社でどう活かせるのか分からない状態からのスタートでした。「社長の息子だからといって何ができるわけでもない」というプレッシャーや、ちゃんとしなきゃいけないというもどかしさがすごくありました。 でも、あるタイミングで「これってすごく運がいいことだな」と思えたんです。若い時にこんなチャレンジができる機会はなかなかありません。せっかくなら、がむしゃらに頑張るしかないと。 そこからは、「自分が今できることを精一杯やって、自分自身に恥ずかしくなければ、他人からどう評価されてもいい」と開き直ることにしました。「これ以上はできない」と自分が納得できるまで頑張るしかない。そう思えてからは、気持ちがスッと楽になりましたね。それはやっぱり、柔道で学んだことが活きているのかもしれません。
ゼネコンでの修行を経て戻ってこられた時、すぐに経営の立場になられたと思いますが、最初の段階で難しかったことや葛藤はありましたか?
戻って少ししてすぐに取締役という形で入らせてもらったのですが、最初は本当に名前だけで、特段何かができるわけではありませんでした。ゼネコンと天元工業では規模が全く違い、学んできたことがこの会社でどう活かせるのか分からない状態からのスタートでした。「社長の息子だからといって何ができるわけでもない」というプレッシャーや、ちゃんとしなきゃいけないというもどかしさがすごくありました。 でも、あるタイミングで「これってすごく運がいいことだな」と思えたんです。若い時にこんなチャレンジができる機会はなかなかありません。せっかくなら、がむしゃらに頑張るしかないと。 そこからは、「自分が今できることを精一杯やって、自分自身に恥ずかしくなければ、他人からどう評価されてもいい」と開き直ることにしました。「これ以上はできない」と自分が納得できるまで頑張るしかない。そう思えてからは、気持ちがスッと楽になりましたね。それはやっぱり、柔道で学んだことが活きているのかもしれません。
現在は高校生など、若い世代に話をする機会も増えているそうですね。お話しされる際に心がけていることはありますか?
「飾らない自分の想いや熱意」をそのまま伝えることです。上から目線で指導するのではなく、自分が学生時代に悩み、泥臭く乗り越えてきた経験を等身大の言葉で語るようにしています。 年齢が近い分、彼らと同じ目線に立って話ができるのが自分の強みだと思っていますし、実際に話を聞いてくれた生徒たちの表情を見ると「想いが届いているな」という手応えを感じています。
現在は高校生など、若い世代に話をする機会も増えているそうですね。お話しされる際に心がけていることはありますか?
「飾らない自分の想いや熱意」をそのまま伝えることです。上から目線で指導するのではなく、自分が学生時代に悩み、泥臭く乗り越えてきた経験を等身大の言葉で語るようにしています。 年齢が近い分、彼らと同じ目線に立って話ができるのが自分の強みだと思っていますし、実際に話を聞いてくれた生徒たちの表情を見ると「想いが届いているな」という手応えを感じています。
今後の「会社の目標」について教えてください。
まずは何より、「地域に愛される会社」であり続けることです。天元工業は、祖父から父へ、そして僕へと受け継がれてきた歴史があります。この会社を絶対に途絶えさせてはならないという強い使命感を持っています。 経営者としての僕の役割は、この会社をさらに発展させ、「次の世代へいかに素晴らしい形でバトンを渡せるか」。その想いを胸に、日々の業務と向き合っています。
今後の「会社の目標」について教えてください。
まずは何より、「地域に愛される会社」であり続けることです。天元工業は、祖父から父へ、そして僕へと受け継がれてきた歴史があります。この会社を絶対に途絶えさせてはならないという強い使命感を持っています。 経営者としての僕の役割は、この会社をさらに発展させ、「次の世代へいかに素晴らしい形でバトンを渡せるか」。その想いを胸に、日々の業務と向き合っています。
会社経営とは別に「個人としての夢」はありますか?
実は、いつか「かき氷屋さん」をやってみたいんですよね(笑)。人生一度きりですし、経営だけに囚われず、いろんな世界を体験し、新しい挑戦をし続けたいという好奇心が常にあるんです。
会社経営とは別に「個人としての夢」はありますか?
実は、いつか「かき氷屋さん」をやってみたいんですよね(笑)。人生一度きりですし、経営だけに囚われず、いろんな世界を体験し、新しい挑戦をし続けたいという好奇心が常にあるんです。
最後に、これから社会に出ていく学生や若者へメッセージをお願いします。
「まずはやってみること」。これにつきます。 失敗を恐れて頭で考えすぎるよりも、興味を持ったことや目の前にあるものにどんどん飛び込んで挑戦してみてほしいです。やってみた経験は、成功であれ失敗であれ、必ず将来の自分を助ける「武器」になります。皆さんの挑戦を心から応援しています。
最後に、これから社会に出ていく学生や若者へメッセージをお願いします。
「まずはやってみること」。これにつきます。 失敗を恐れて頭で考えすぎるよりも、興味を持ったことや目の前にあるものにどんどん飛び込んで挑戦してみてほしいです。やってみた経験は、成功であれ失敗であれ、必ず将来の自分を助ける「武器」になります。皆さんの挑戦を心から応援しています。
プロフィール
天元工業株式会社
加藤 航大
天元工業株式会社取締役の加藤航大。学生時代は土木を学びながら柔道に打ち込み、ゼネコンでの4年間の修行を経て実家に戻る。就任当初は前職との規模の違いに葛藤したものの、現在は今できることを精一杯やるスタイルへと変化し、経営に注力している。幼少期に誓った家業の存続を胸に、祖父から父、そして自身へと受け継がれてきた会社を「地域に愛される会社」として守り、次の世代へよい形でバトンを渡すことを目指している。大切にしている言葉は「執念」「根拠のない自信」。
